力持ちオオサブ

オオサブは元三郎といい、遊子谷の棟遊子に生れた。
母親が早く亡くなった。義理の母になって、家を分けた。十番耕地のナガツゾレであった。
オオサブは、自分で材をよせて建てたという。
材を切り出した山から家まで七、八丁(約八〇〇メートル)あり、それほど急な坂道ではないが、細道をかついで材をよせた。
家を建てているとき、義理の母の子に家をやる、という内輪の争いが起こった。
「わしにくれんのなら、なんぎせんならんことない。虹梁(こうりょう)を三つにして建てる」といって三分の一の長さに切って建てた。
それでも、やだきが七間(一二・七メートル)あった。破風なしの冬棟(ーむね)のウシキを三つに切ってかついだ。この家は大正五、六年ごろこわしてもうない。
日浦の西川秀義は明治二二年生まれだが、若いころは棟遊子谷にいた。
大元神社に近いところに元三郎の生まれ屋敷があってわずか一間(一・八メートル)の川を隔てただけで、西川の家の真向かいに元三郎の新しい家は建っていた。
西川の幼いころから、二度丸焼けになったので、事実はわかりにくくなっている。
手形も一枚の紙では指先が紙からはみ出していた。西川が一二、三歳のころ見た記憶があった。
縦約一尺(三三センチメートル)に幅一尺余りのソギの箱にはいっていたが、それも焼けたのであろう。
オオサブは塩の駄賃持ちをしていた。宇和島から塩を馬の背につけて運んで帰って遊子谷で売っていたわけである。
宇和島にかよう途中で伊達の殿様に出合うことがあって自分は一二俵背負っていて、馬には八俵つけていたが、馬をだいて道をよけた。
力持ちのオオサブを見て、窪野のクロスケとともに、二人を召しかかえたいと、殿様から声がかかった。
オオサブは、生のしょうゆを一升(一・八リットル)飲んで、病身ものと、診察をうけて、勤めはできぬと断わった。
窪野の力持ちのクロスケ(またの名はホホグロ)と北宇和郡の三間の深田を通っていると、地区の大ぜいの人たちが出て大きい家の材木のうえに五色のボデンを立てて、一寸きざみにひっぱっていた。
口の悪い二人だったから
「ミミズにアリのたかったようなもんよ」
というと、
「こいつひっぱってみよ」
といわれた。
「わたしたちは力がないぞ。そげえなものひっぱることはこたわんぞ」
といったが、承知してくれない。
「承知してくれな、しかたないけん、やってみないかん」
二人で材木をかついで、三丁(三三〇メートル)あともどりして、たんぼへ落としこんで、そのまま宇和島へ行ってしまった。
帰り道に通ってみると、酒とたいたメシをだし、はいかかがんで、
「たんぼからあげるだけ、あげてください」
というので、もとのところまでかつぎあげて、五升ダル(九リットル)の酒を二人で口をつけてのんでしまった。
そして三升メシ(四・五キログラム)のはいるスシはんぼに入れたメシを食ってしまった。
野村町の植木は二〇戸の家がある。高いところに茶堂があった。
オオサブ、クロスケはそこを通って坂石を越える。宇和島へ出る途中茶堂の向きをかえた。
帰りに寄ってみると、組中の人が出て祈念しよる。
「あんたら、どげしよりなはる」
オオサブ、クロスケの質問に、地区の人は
「お堂がひっくりかえったので、社人をよんでおがんでもろうとる」
と答えた。
「社人よりたやすくわかることはある」
といって、二人でうづみついて、ぐっすりもとにもどした。
オオサブは二〇〇貫の石を持った人。
誓願寺の本堂の踏み石や別宮家の座敷の踏み石も、オオサブが下の川から素手でかきあげたものである。
遊子谷では、女に力持ちがうつると力持ちは絶えるという言い伝えがある。
オオサブの子孫に大崎玉代という力持ちの女が出て以後、オオサブの系統に力持ちはいないという。
大崎玉代は、大きな屋敷を建てることになり、山の木を切った。
ハゼ畑のうえに山があった。
玉代は切った木を下へ落とす。じいさんが、それをとって集める。
玉代はどんどん木を落とす。大きな木が落ちてくると、じいさんは逃げる。
それで玉代が交代して、じいさんが木を落とす。それを玉代が受けて積んでいく。
玉代はすばやく木を受けては積んでいくので、落とす方が間に合わない。
「早よ落とせ」と玉代が言って、どんなに早く落としても、どんどんと受けて積んでいくほどの力持ちであった。
大きな女子で、大力持ちで、大きな石碑を建てた。
それが大崎玉代であり、以来、オオサブの子孫に力持ちはできなくなった。



