SHARE:

水ケ峠池の伝説(人柱)

水ケ峠池の伝説(人柱)

水ケ峠池は窪野越まで約三〇〇メートル程の鞍部にあって水面積約四反歩、池掛り水田約七町歩ある。

伝説によると、この池が築かれるまでは下蔭部落には、水田はごく僅かな反別しかなかったといわれる。

当時は田畑をはじめ山地もほとんど庄屋の所有であったという。

百姓は米を食うことが出来ないのは勿論、庄屋も米の生産がないので年貢の取り立てに困り、池の造築を計画したのである。

そこで庄屋の命に従い、百姓達は毎日玉蜀黍の弁当を持って集まり、終日掘ったり「もっこ」で担ったり、並大抵の作業ではなかったという。

着工から完成まで約一〇か年を要した大事業であった。

池の両側及び奥地は五、六町歩もある、禿山で大雨の度に洪水となり、土壌が崩潰し、幾度も工事を中断し、一時は絶望の時期もあったと言われる。

そこで言い伝えに浮び上がったのが、人柱をたてねば工事は進まないという事になったそうである。

このことは洪水より以上の難問題であったのであろうことが想像できる。

あれこれ協議を重ねられているうちに、自発的犠牲者が現れた。皆は祈る気持ちでこれを受け入れ、いよいよ工事の運びとなった。

生きた人が深く掘った穴の中へ入って行くその姿を、庄屋も人夫達も手を合わせただぼう然と見ていたという。

長い空気の通る竹筒を立てて、その人には打金を持たせた、人々は無言のまま口の中で、南無阿弥陀仏を唱え上から土を掘り込んだ。

土手の底から打金がちんちんと聞えるごとに人々は青ざめた顔で何時までも心中で供養を続けたという。

それから順調に工事が進み完成したのが享保一七年(一七三二)である。

人柱となった人の名前は分かっていないが、池より五〇〇メートル程下がった所に石仏が立てられている。この方が人柱の犠牲となった石仏と伝えられている。

石仏の中央に、南無大師遍照金剛右側は不明左に享保一六年八月二一日と刻まれている。その後急速に開田が進み、よい稲が実るようになった。

部落ではその霊を慰めるため、作祈禱を行い部落全員が、この石仏の前に集合、念仏を上げて供養し、作神様として豊作を祈念している(中山芳男談)。

水ケ峠池築造犠牲者(人柱か)の墓
あなたへのおすすめ