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雨包山と恵美須様(あまつつみやまとえびすさま)

雨包山と恵美須様(あまつつみやまとえびすさま)

宝德年間(一四四九〜五二)西宇和郡川之石村雨井の海底に光るものがあり、海人(あま)が、拾って見ると恵美須様の像であった。

雨井の海が見える山へ祀ってくれとの神の御告げに添って海人は、山へ山へと向かった。

途中、魚成の今田、古市の中津川、上川のホロロ岩へと泊まった土地に恵美須の神跡を遺し、野越え山越え重谷のウルジリ峠に辿りつき、惣川と野井川の境の嶺を登ったのだろう。

途中に像の包みを掛けたツツミ掛木と呼ぶ遺跡がある。

登り詰めた丘が雨包山。

こここそ、雨井はおろか豊予の海が一望に収められ、お告げ通り誂え(あつらえ)の所。ここに石祠を造り奉遷(ほうせん)し、その祠の材石がある。

それから毎年、十月初亥をお祭り日と定め予士のカ士が技を競う大角力(おおずもう)が奉納されていた。

ことに遠い浜から遷幸(せんこう)された恵美須大神ゆえに、福を授からんと次から次へと呼びひろがり、力士も参詣者も多くなり、お宮を建てたのだろうが、何分高い所で朽ち果でお宮に祀ってあったお姿は何者かに盗まれ、惣川の土居庄屋に売られ、そこで祀ってある噂が言い伝わっている。

それは、寸八分かのお姿で重味があり、底光のする像であった。

祭日の前夕お旅所の角力場へ、打ち鳴らす太鼓を先頭に夕焼けに光るお神興の行列は惣川と野井川の嶺を登り、西の方はいよいよ開け宇和海は紅に染め眺望豊かな山に着き、夜も明けやらぬ内から福を授からんと、一番札を求めて参拝の人が集まっていた。

大正二年秋、新しくお宮を造営し、神璽(しんじ)も新しく造り、年々盛大なお祭りが行われていたが、終戦と共に移り変わる人心は押さえられず、倦惰の世相はどこも同じく、昭和三十一年より由緒ある雨包山の祭礼は取り止め、祭り当日地区内を巡行し福を授くお成の儀式に代えていた。

ちなみにお祭りを止めるまで雨井から海の幸を供えられていた。

この祭りには、作物が供えられ稲穂や、豆、キビ等、これを貰い種にしたと言い伝えられ、お供えにより種の交換のお宮でもあり、これも一つの福の授かりであったのだろう。

周囲は三十五町余り、河内神社所有の原野であったものを、明治三十九年(一九〇六)日露戦争凱旋記念としで杉、桧の植林を行い、野井川地区発展の財源とし社はこの山林の中にある。

再度に建立したお宮もまた朽ちかけていたが、林道がお宮へ通じ、一方昭和五十八年大規模林道の開設にともない社殿を改築し、お祭りを復活することとなった。

雨包山恵美須を謡った伊予節が野井川に残っている。

伊予の野井川 名物名所 音に名高い 雨井の恵美須
跳石 はね石 海士呼石(あまこいし) 包掛木や 岩葦や
橋はなけれど 一橋 角力は大関 若恵美須

2025年9月撮影
2025年9月撮影
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